日本食の昔話

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日本食の昔話

2024.02.22

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今回は日本食の歴史について。

第1部:年表

わたしたちは学校で日本の歴史を教わっていますが、教科書では

  • 大化の改新
  • 源平合戦
  • 応仁の乱
    みたいな、政治とか戦争みたいなところにばかりスポットライトが当たっています。
    「日本食の歴史」を学んだ記憶は、あまりありませんね。

そこで少々、日本食の超おおざっぱな「年表」みたいなものを作ってみました。

弥生時代

稲作が広がる

飛鳥時代(6~7世紀)

中国から箸が伝わる
肉食禁止令

奈良時代(8世紀)

和包丁が生まれる

平安時代(9~12世紀)

日本料理の原型が生まれる※

鎌倉時代(13~14世紀)

中国から精進料理が伝わる

室町時代(14~16世紀)

料理人が出汁を取りはじめる
ワサビを使いはじめる

戦国・安土桃山時代(15~16世紀)

欧州から天ぷらの原型が伝わる
醤油が調味料の主役となる

江戸時代(17世紀~19世紀)

寿司が現代のような形になる

明治時代(19世紀~20世紀はじめ)

すき焼きが誕生する

補足

※日本料理の基礎ができたのは、平安時代です。
当時の貴族の食卓は、「美味しさ以上に盛りつけを重視」していたようです。
つまり、美しさ、目を楽しませることを重視した料理として発展していきます。

現代の日本料理が「見た目の美しさ」を大切にする伝統は、平安時代に始まったものでした。

第2部:有名人の食事

歴史の有名人は何を食べていたか。

  • 清少納言
  • 紫式部
  • 徳川家康

の食事をとりあげてみます。

平安の才女、清少納言

(966年頃~1025年頃)

日本最古の随筆集「枕草子」の作者である清少納言は、平均寿命が30歳程度だった平安時代に、その倍(推定60歳前後)ほど長生きしました。
歌人である父から受け継いだ文学の資質を磨くため、一条天皇の時代、私的な女房として中宮/藤原定子に使えました。

当時、庶民は「一汁一菜」が常食でしたが、その時代にあって、2、3品以上の副食物を常食していたと言われています。
その食生活の内容が気になるところですが、「枕草子」の中にいくつか見つかります。
よく出るのは、クルミのようです。
そのほか、ナズナ、ヨモギ、レンコン、イチゴなどの名前も出てきます。
それから、小豆です。
「十五日はもちがゆのせてまえる」 とあります。
「もちがゆ」とは小豆を用いてつくる「赤がゆ」のことです。
赤は「縁起のよい色」として好まれ、正月など特別の日以外にも、赤がゆや小豆でご飯を食べる習慣がありました。

「源氏物語」の作者、紫式部

(970年?~1014年?)

イワシは「鰯」、つまり魚偏に弱いと書きますが、別名「ヨワシ」とも呼ばれ、非常に傷みやすい魚です。
しかし江戸時代の書物には「人を強健にして長生きさせる」と紹介されており、大衆魚として庶民に広く愛されてきました。

そのイワシが大好物だったのが、紫式部。
しかし平安時代の貴族たちは、名前が「卑しい(いやしい)」に通じるという理由でイワシを忌み嫌い、口にしなかったと言われます。
鮮度の問題もありましたので、お腹を壊すのを恐れたのかもしれません。
そのような時代ですから、紫式部もイワシ好きをおおっぴらにできず、夫である藤原宣孝(のぶたか)が出かけたときにこっそりと食べていたと言われています。

ある日、帰宅した夫がその匂いに気がつきました。
脂たっぷりのイワシを焼いたのですから、家の中には匂いが充満しています。
「あのような卑しい魚を食べたのか?」 と、夫に非難されましたが、まったくひるまず、和歌を謳ったそうです。
「日の本(もと)にはやらせ給(たま)ふいわしみずまいらぬ人はあらじとぞ思ふ」
当時、石清水八幡宮に詣でるのが流行していましたので、「日本人で八幡さまにおまいりしない人がいないように、イワシを食べない人もいませんよ」という意味です。

紫式部は、幼少の頃から物覚えがよく、非常に賢かったと言われていますが、その素晴らしい頭脳に磨きをかけたのがイワシ(のEPAやDHA?)だったのかもね。

江戸幕府を開いた徳川家康

(1542年~1616年)

戦国時代の天下人といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ですが、亡くなった年齢は、信長49歳、秀吉62歳、家康75歳。
3人のうち、健康に最も気を使った人は、家康です。
家康以降の徳川14代の将軍の平均寿命は49.6歳(当時の日本人の平均寿命は37.8歳)でしたので、いかに家康が長生きだったかをうかがい知ることができます。

家康の人生の目標は、3つありました。
「長生きすること」
「天下を取ること」
「子孫をたくさんつくること」
目標を達成するため、日頃の健康管理に注意を払い、粗食とともに早寝早起きを常としていました。

家康は麦めし好きで、今川家の人質だった時代から、死ぬまでずっと常食しています。
贅沢な食事は好まず、穀類、大豆、魚を材料とする、日本人の伝統食の原型ともいえる、「麦めし、みそ汁、丸干しイワシ」を好み、それらを常食としていました。
これにより「明晰な頭脳」「強靭な心身」が養われたのかもしれません。

健康に気を使い、信長や秀吉よりもずっと長く生きたからこそ、天下取りの夢が実現できた家康。
16人の子宝にも恵まれ、目標はすべて達成しました。